東広島混声合唱団第25回定期演奏会に行ってきました。
プログラムは、
1st Stage 〜愛唱曲〜
 ゴンドラの唄
  吉井勇中山晋平曲 林光編曲
 『旅立つものに―帰路』より 夢の枝
  井野口 彗子詩 松本憲治曲
 瑠璃色の地球
  松本隆平井夏美曲 源田俊一郎編曲
2nd Stage 〜水のいのち
 混声合唱組曲水のいのち
  高野喜久雄作詞 高田三郎作曲
3rd Stage 〜児童合唱団 大地〜
 アオギリのうた
  作詩作曲 森光七彩
 さんぽ
  作詩中川季枝子 作曲久石譲
 となりのトトロ
  作詩宮崎駿 作曲久石譲
 世界中のこどたもたちが
  作詩新沢としひこ 作曲中川ひろた
4th Stage 〜Mozart Requiem〜
 レクイエムK.626
  W.A.モーツァルト
でした。
合唱もやっぱりいいね。僕は普段歌詞のない音楽をやってるから、合唱を聴くと言葉の持つ美しさを感じますね。声の作るハーモニーってすごくきれいだし。
3rd Stageは児童合唱でした。一番下の子なんか幼稚園の年中さんだったよ。譜面台より小さかった。笑。めっちゃかわいかったなぁ。小さいころから音楽に親しむのって音楽教育だけでなく、豊かな心を養う上ですごくいいと思いますね。
そして、今回の目玉が4thステージの、ウ゛ォルフガング・アマデーウス・モーツァルト(1756〜1791)のレクイエムK.626。合唱とソリストと室内オーケストラからなる曲なんだけど、すばらしかったね。合唱もソロもオケも一つになって美しい音楽を作っていました。感動したよ。
さて、ここでモーツァルトのレクイエムの話。僕のうろ覚え知識も混ざってるから、もし、「モーツァルト レクイエム」とかで検索して来た人がいたら、ここの記事はあんましあてにしない方がいいよ。笑
そもそも、レクイエムとは死者のためのミサのことですね。レクイエムが成立した9世紀ごろは、人は死ぬと罪の償いのために激しい苦しみを強いられる、と考えられていました。そのときの罪を軽減することを祈るのがレクイエムです。日本語訳は「鎮魂歌」などとありますが、レクイエムの目的は死者の魂を鎮めることではなく、死者の罪の軽減を祈るものですから、この訳は適切ではないようです。
さて、モーツァルトのレクイエムですが、この曲の作曲を依頼するために、ある嵐の夜に灰色のマントをまとった男がモーツァルトのもとにやって来るんですね。その時すでに体を壊し、死の不安を抱えていたモーツァルトはこの男を地獄からの使者と恐れ、これは自身へのレクイエムであると覚悟した…なんてエピソードがあります。結局このレクイエムの作曲中にモーツァルトは亡くなってしまい、最終的にはお弟子さんがこれを完成させたんですね。
ともかく、今日はすばらしい音楽に触れることができて、とても幸せです。僕も19日に演奏会を控えているので、モチベーションの高まりを感じました。
そこで一つ考えたことがあるんです。演奏者の意図と聴き手に起こる反応についてなんですけど。今回、僕は演奏を聴いて、次の演奏会に対するエネルギーをもらったわけですが、演奏者は別に「演奏会を控えている人にエネルギーを与えよう!」なんて思ってるわけじゃないでしょう?ただ、聴き手に美しい音楽を届けようとしているわけで。でも、そのことが演奏者の意図を超えて聴き手にいろいろな影響を及ぼすと思うんですよ。今日は会場は超満員でしたが、いろんな人が来てると思うんです。その中で、例えば明日の授業サボろうとしてた大学が、演奏を聴いてなんだかやる気が出て、やっぱり明日の授業に出る、ってことはあると思うんです。
僕も自分の演奏で人に何らかの影響を与えることができたら、それはそれで素敵なことだと思うし、その可能性はある、と思いますね。
ただ、これは音楽に限ったことじゃなくて、例えば、何か嫌なことでもあってへこんでた人が、たまたまここのブログに飛んで来て、「こいつ、アホで面白いな。」って思って、少しでも元気が出る、そういうことは無いとは言えないと思います。そう考えると、すべてのことには意味があるように僕には思えますね。
やれやれ、話が少し飛躍してしまったかな。しかも長い!笑。早く自分のパソコン直さないと不便だね。