共同事業の哲学

やぁ、こんばんは。
最近、猫のミシェルが色々といたずらをするので困るよ。でも、可愛いから許しちゃう。笑。可愛さこそ強さ、か。
だが、今日は別の猫の話だ。
先日、また庭で衰弱してる小猫を見つけたんだ。
うちにはすでにミシェルがいて飼うのは難しいし、目の前の悲劇に対して常に自分が何でもできるとは思ってはいないけど、それでも、そのまま見捨てるのは、僕のやり方ではないので、獣医に連れて行って、家で保護してたんだ。
でも、結局、助からなかった。
いずれ里親を探すつもりで、あまり情を移さないようにとは思ってたんだけど、それでも、ショックを受けた。覚悟が足りなかったんだね。まぁ、もう大丈夫だけど。
これまで、色々な死に触れてきたが、その度に、僕は、悲しみと同時に怒りを覚えるんだ。我々から大切なものを奪っていく死に対して、生命が有限である自然の摂理に対して、どうしようもなく激しい憤怒と憎悪を感じる。
そういう自然の摂理を、偉大なものとして受け入れる考えもあるだろうけど、僕はそうではなくて。自然を凌駕し、屈服させることが、人類の目指すべき世界だと思う。
いつの日か、人間は死を克服できるのだろうか?人間が死を免れ、そして、死者が蘇り、生者と死者が再び手を取り合うような理想郷、《ぼくたちみんな、死からよみがえって命をえて、おたがいにまた、みんなにも会える》ような世界が実現するだろうか?
僕は、いつかそういう世界が、物理的に、実現してほしいと思う。
と、こういう話をすると、アヤシイ宗教か何かに洗脳されたんじゃないかと誤解されることがありそうだけど、その点はご心配なく。笑。僕はそういうの嫌いだ。僕が求めてるのは、精神的なものじゃなくて、物理的なものだしね。それに、僕の思想は、自身の経験と読書によって作られている。今は、「カラマーゾフの兄弟」を読み返していて、やはり感銘を受けたし、死者の物理的復活ということに関しては、ニコライ・フョードロフに興味がある。