一時一分一秒と一時一分二秒の間

学校帰りの電車での話。
僕の隣りに座ってた人が、かなりの美女だったんですよ。それでね、しばらく電車が走ったころ、美女が眠くなったらしく、僕の方に、かくーん、と。
僕とて、美女に肩をお貸しして悪い気はしない。笑
が、安心してくれ、赤の他人など全く信用しない僕は、様々なケースを想定し、財布の所在は常に確認していた。
まぁ、それは大した話じゃない。本当に面白かったのは行きの電車の話。
まずは僕の利用している路線について説明しなければなりません。僕が乗車するのが岩国。降りるのが広島。岩国と広島の間に玖波という駅があるが、僕のいつも使う急行は玖波には停まらない。以上、簡単な説明。
それで、今日岩国から電車に乗ろうとしたとき、後ろから女性に声をかけられたんです。「この電車はどちらに行きますか?玖波には行きますか?」と。
電車はすぐに出てしまうので、僕は、「玖波には停まりません。」と、彼女に最も必要と思われる情報を差し上げたわけです。
しかし、電車が広島に向けて動き始めたとき、ホームに残った彼女の顔に浮かんだ表情は、一瞬の驚き、そして怒りでした。
あの顔は、明らかに、広島に向かう電車は全て玖波に停まると思ってる顔だ。そして、僕に騙されたと思ってる顔だ。
やれやれ。僕は親切かつ正直に振る舞ったつもりだったんですがね。
まぁ、今回のことは(おそらく)大した問題ではないのだけど、人生の重要な局面においても、真実を伝えたにも関わらず、ディスコミュニケーションが起こることは多々ある。
また、今回は僕が彼女の最初の質問も考慮して、「広島に向かうが、玖波には停まらない。」と答えれば、良かったわけだけど、どれだけ多くの真実の言葉を並べても、ディスコミュニケーションは起こり得る。
言葉は非常に発達したコミュニケーションツールだとは思いますが、自分の脳内イメージを言葉に変換し、言葉を受け取った相手がその言葉を再び脳内イメージに変換するプロセスにおいて、必ず誤差が生じますからね。
その誤差が思いも寄らぬ悲劇を引き起こすこともある。
話が大きくなったけども、現在の人類の能力では、完全なコミュニケーションは不可能です。(「完全なコミュニケーション」の詳細な定義はいったん置いておくとして。)
例えば、より進化した生物が、自分の身体を相手に突き刺し、脳に直接イメージを送り込むことができるようになれば、そこで初めて完全なコミュニケーションが成立するでしょう。
このくだりで、セックスを連想した人は、…このスケベめ…じゃなくて、いいとこ突いてるんじゃないですか?相手の脳に直接イメージを送り込むことはなくても、あれほど直接的なコミュニケーションもないでしょうし。色々な面で情報伝達作業ですし。
要するにね、今日の話は、我々の言葉をメインとしたコミュニケーションは完全ではないですね、という、当たり前の話。
「言葉にすることは心を区切る作業だ。一つの感情を言葉にした時、その言葉に収まりきれないどれほどの感情が失われるのだろう。デジタル時計が、一時一分一秒を表示した瞬間、一時一分二秒との間にある無限の時間を我々の認識が失うのと同じように、言葉と言葉の間に存在する無限の心を我々は失っているのではないかと思う。「楽しい」という一言で充分な感情などあるだろうか?「悲しい」と一言で表現できる悲しみなどあるだろうか?」(『爆笑問題のニッポンの教養太田光氏のまえがきより)
まぁね、ディスコミュニケーションも悪いことばかりじゃないですよ。芸術なんてのは、人それぞれの解釈があってよし。言わばディスコミュニケーションを楽しむものでもあるでしょうから。
いやぁ、長くなっちゃいました。関心のある分野だと、どうしても、ね。
ところで、「コミュニケーション」、で良かったっけ?「コミニュケーション」だった?
まぁ、どっちでもいいや。笑
表現される言葉が間違っていても、意図は伝わる場合もあるということか。