薔薇

「誓いは言葉にすぎず、言葉は風にすぎない。」(サミュエル・バトラー)

今日は子ども達を連れて川遊びに行く予定だったんですよ。しかし、悪天候により中止に。残念だ。
坂本龍馬は子どものころ、「泳げば晴れだろうと雨だろうと濡れるのは同じだ。」と言って雨の日に傘も持たずに川に行っていたそうです。僕らもそれぐらいのスピリッツを見せたいところだったんですがね。安全第一、ということで。
さて、今日明日と毎年恒例の24時間テレビをやってますね。川遊び中止で機嫌が悪いから、批判的なこと書いちゃうぞー。笑
機嫌が悪いからというのは冗談ですが、僕はあの番組はあまり好きではないな。
いや、立派な番組ではあると思いますよ。寄付もかなり集まるようだし、人気もあるようだし。ただ、僕の好みではない。
あの番組で、障害のある人が何かにチャレンジして、それをみんなが見て(その多くは健常者であって)、感動する、という企画がいくつかあるでしょう?それを見た人はこう言う。「とても勇気をもらいました。障害を持ってる人があんなに頑張っているんだから自分も頑張らなきゃいけないと思いました。」
まぁ、悪いことは全く無いんですが、僕は違和感を覚えるんですよ。こういう発言、こういう感動の仕方の裏には、「じゃあ、健常者はもっとできるよね。」っていう思いがあるんじゃないか、と感じるんです。ひねくれてますか?自覚してます。苦笑
去年、番組の中で千手観音っていう出し物をやっていましたね。見たって人も多いでしょうが。10人くらいが縦一列に並んで、少しずつずらして手を出す。すると、先頭の人の背中からたくさんの手が生えてるように見える。その状態で様々に手を動かしてみせる、というパフォーマンスです。そして、去年パフォーマンスした人達は耳の聞こえない人達だったんです。番組では、耳の聞こえない状態でタイミングを合わせる苦労をしている練習風景が流されて、その後パフォーマンスが行われ、それを見た人達が、「耳が聞こえないのに、こんなことができるなんてすごいね。」ってなっておしまい。
僕はね、これはなんか違うと思うんですよ。パフォーマンスは本当に素晴らしいものでした。一糸乱れぬ動きでね、とても美しかった。そこに、耳の聞こえる聞こえないは関係無いと思うんです。耳が聞こえない人達がやってるからすごい、のではなく、ただ純粋にパフォーマンスとして優れていた思います。素晴らしいものは素晴らしい、それでいいじゃないですか。そりゃ、耳が聞こえないゆえの苦労ってのがあるのはわかりますよ。でも、パフォーマーは、「耳が聞こえないのに、こんなことができるなんてすごいね。」って思われて嬉しいとは思わないんじゃないかな。障害の有無に関係なく、パフォーマンスそのものを見てほしいんじゃないでしょうか。僕なら絶対そう思う。
あの番組は、「感動しなければならない」という思いが先走ってると思うんです。感動するためには大きな困難を克服しなければならない。演出のためのあえて困難を求めているのではないかと感じてしまします。そして、その困難が例えば障害であったり。
感動するために何かをする、それはそれで素晴らしいことだと思います。ただ、あまりにも「感動しなければ」という思いに囚われるのは、良いことだとは思えません。もっと行為そのものに注目すべきではないでしょうか。

「薔薇は美しくあるために咲くのではない。ただ咲きたいがために咲いているのだ。だからこそ美しいのだ。」(チャップリン『ライムライト』より)